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2011年10月の記事

2011年10月31日 (月)

クリフォード・ブラウンを初めて聞いたとき。

大学の入学直後、クリフォード・ブラウンのトランペットを初めて聞いた。

その時の衝撃は、とんでもないものだった。

受験勉強が終わって思いっきりJazzが聞けるという事で、ずっと聞きたかったクリフォード・ブラウンのアルバム(もちろんLP)を買った。

私が初めて聞いたブラウニーのアルバムがこの「Clifford Brown and Max Roach at Basin Street」。

1曲目の「恋とは何でしょう」のテーマが終わるや、いきなりのブラウンのソロで、吹っ飛んでしまった。

何て事だ。おれは、こんな音楽を聴かずに今まで18年も生きて来たのか。

Jazzの人たちとの出会いでは、たくさんの衝撃があるがこれはやはりトップクラス。

その後クリフォード・ブラウンのアルバムは学生時代にすべて買う事になったが、何10年経っても一番好きなアルバムはこの「ベイズンストリート」だ。

理由は、ブラウンがすばらしいのは当たり前なのだが、私はロリンズの参加と、リッチー・パウエルのナイスな曲と、その編曲が光っているからだと思っている。

ブラウン=ローチ クインテットのロリンズはいまいち冴えなくて前任のハロルド・ランドの方がなじんでいるなんていう人がけっこういるが、何を言うか、って思う。

ロリンズのテンションが桁違いでしょう。

私は、4曲目以降の流れが好きだ。

04.    パウエルズ・プランセス
05.    タイム
06.    ザ・シーン・イズ・クリーン
07.    ガルトルーズ・バウンス
08.    フロッシー・ルー

特に、バッピッシュなテーマが楽しいザ・シーン・イズ・クリーンとガルトルーズ・バウンスはモダン・ジャズの名曲だと思う。作曲者リッチー・パウエルのセンスが光る。

ダメロン作編曲のフロッシー・ルーもいいテーマだ。

リッチーのピアノは他のパウエル派と言われる人たちとは一線を画す。

音選びが厳しくてとてもバップで、やっぱり兄貴の直接指導が感じられるのだ。リッチーすごいっす。

クリフォード・ブラウンの音楽と出会うか出会わないかで、人生になにがしかの影を残すと思う。

わたしも、ブラウニーを知らない人生なんてと思うと、、考えられない。

ブリリアントという表現がぴったりな彼のトランペットだが、その人柄を伺わせる、健康的な温かさ。

Jazzという音楽で、勇気づけられる人ってそうはいない。

「Clifford Brown and Max Roach at Basin Street」

Basin

2011年10月30日 (日)

津留晃一さん「後編」

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津留晃一さん(その4)「俺がやらなきゃ」という価値観。
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その3では、わたしが津留晃一さんに出会って、「お金に対する恐れ」の浄化を開始した話でした。
「お金に対する恐れ」は手強いです。人々の集合意識として根深いので、何年か浄化しても簡単に取れるものではないのです。
私は、一枚一枚タマネギをむくように取れていきました。
このことを知っていると少し気持ちが楽になります。
昔より全然小さくなりましたが、私もまだ自分の中に観察出来ます。
今は、私が始めた当時に比べて、地球のエネルギーレベルが相当上がっているし、サポートもたくさん来てるし、早いと思います。
ただ、そんなシナリオの人が、あまり先延ばしで行くとギャップが大きくなると思います。
この「お金に対する恐れ」ですが、根っこではありません。根っこにはある価値観がドーンと存在しています。
それは、
「おれが(私が)やらなきゃ。」という価値観です。「おれ(私)という自我」
これが根っこです。
これががっちりと基礎を固めているのです。
「お金に対する恐れ」はこれの枝です。
この「おれが(私が)やらなきゃ。」という価値観があるために、
お金稼がないと生きていけない、こんな事しててはいけない、何とかしなくちゃ、遊んでばかりじゃバチが当たる、といった罪悪感や、一生懸命働かなくちゃ、などなど。
これらは全て「おれが(私が)やらなきゃ。」という価値観の枝分かれです。
(楽しくて楽しくてしょうがない仕事を一生懸命やっちゃった、という状態は別ですよ。)
「おれが(私が)やらなきゃ。」は、3次元で生きて来た私達固有のモノです。地球人だけなのです。
もう卒業(卒園)する時期になっています。
宇宙から見ると、地球人類はようやく幼稚園を卒園し、小学校に上がるそうです。
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津留晃一さん(その5)「意図する」。
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津留晃一さんとは個人セッションで4回、講演会で1回会う機会がありましたが、4回目に笑いながら「もう来なくていいでしょう。」と突き放された?ので、それ以来お会いする事はありませんでした。
1997年7月公務員を辞めてから、日々浄化のワークなどやりながら我が子と一緒に遊んでいました。
朝から都内のドトールコーヒーで精神世界系の読書で時間つぶしたり、同じような感性の友達と旅行に行ったり、そんな「しあわせ感」いっぱいのプータロー生活で、1年近く過ごしていました。
当時、わずかな退職金があったので、私と妻と1才半の子と3人で、またHawaiiに3か月旅行に行きました。大好きなMauiです。
コテージで自炊の長期滞在ですが、Mauiは、ベジタリアン人口が多く小さな田舎町のKiheiにも自然食品店があり生活しやすいです。
最後は現地の人のようになっていました。
この旅は最高でした。仕事辞めてよかった、と心底思いました。
そこでほとんどのお金は使い果たしました。
こんなにすばらしい旅から帰って来て、待っていたのは「恐れ」です。
やはり「こんなことやってていいのか」、という恐れ。
ある事に気付きました。
この「恐れ」があるという事こそ、浄化の旅に船出をしている確かな証拠であると。
限定された世界から、いったん自由になると、今まで隠されて来た「恐れ」というエネルギーが表面に浮かび上がって来たという事です。
「恐れ」に面と向かう。逃げない。
逃げると相手はどこまでも追っかけてくる。
またお金を得るために、就職なんかしたら、「恐れ」は消えるだろうか?
けっして消える事は無いのだ!
いったん隠されるだけで、わたしのオーラ・フィールドには、永久に「恐れ」は残っているのである。
なぜならそれは、エネルギーだから。
私が魂として進化するとしたら、このエネルギーを浄化しない限り次のステップに進まないという事です。
大きな発見でした。逃げるわけに行かないのです。
あーあ、じゃあ取り組むか、、、てな感じです。
このころには、かなりガイドさん達にきたえられたのか、ビビらなくなってきました。
津留さんの、言葉です。
「恐れなくなるには、慣れてしまえばいいんです。」
私も「働かないと生きていけない。」という価値観を手放して、いったん離職はしたわけですが、3次元で生きているのだから、なんらかの収入が入る方法が必要なわけです。
それでも、これまでのような、食べるために人生を切り売りして働くという種類の生き方に戻っても、それはただ転職しただけという事になります。
そこで私の場合ですが、次のように決定しました。言い換えれば宇宙に対して要求しました。
* * * * *
《私は、会社やいかなる組織にも属さず、時間が100%自分で管理出来る自由な仕事をする。
休みたいときに仕事は休み、逆に仕事が乗っている時は、何時まででも出来る、こんな仕事をする。》
と意図しました。
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「意図するという事は、それ以外を選択しないという決断でもあります。」
この辺のインスピレーションは、津留晃一さんもありますが、その頃読んでいた本「プレアデス+かく語りき」、「神との対話」からの影響かもしれません。
家も前年に建てたので、住宅ローンがあり子供も居るので、それに必要な収入は宇宙が用意してくれる、と決めました。
その方法も、全て宇宙に要求するのです。
必要なもの全てです。
きっとそんなことが起きてくる、と不安を払い、信頼に持っていきます。
親や友達の援助だけは、絶対に受けない覚悟で、とにかく必要なものは、全て宇宙にあるはずですから。
ましてこんな考え両親や友達には、話せません。
頭が変になったとしか思われないでしょうから。
実際自分でも、おかしいんじゃないかと思った事もあります。
そんな存在がいたのでしょう。
すぐに「恐れ」が頭を持ち上げてきます。
でも出てきた時は浄化のチャンスです。
そんな「意図」の後、退職してから10ヶ月くらいあとです。ついに起きてきました。
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津留晃一さん(その6)「起きてくること-前編」。
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その後、私に「起きてきた事」を書きたいと思います。
わたしにとっては、それまでの私の経歴では考えられない人生の展開なので、今でも信じられないのですが。
そんなわけで、書いてみる事にしました。どなたかの、少しでも参考になればという事で。
一番お伝えしたい事は、
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宇宙に委ねていると、起きてくる事が。
* * * * * 
実にたくさんのシンクロニシティが起きまくって、今現在の私の仕事が生まれました。
流れを省略しすぎると、その辺の雰囲気が伝わりにくいので、長い話になりますので、2部に分けます。
1998年4~5月のことです。
Hawaii長期滞在から帰って、特に何もする事なく実に質素な日々を過ごしていました。
ある日妻が、うちも大きな鏡(姿見)が欲しいね、と言ったので都内の家具屋めぐりをしました。
目黒の家具屋さんですごくピッタリのデザインの木枠のフレームの鏡が見つかり、オーダーしました。
そう、展示してあるのはサンプルで、オーダーだったんです。
ここからもうシンクロが、始まっているんです。
納期が2ヶ月かかると言われ、前金で支払い待っていました。
待っていたというより全然忘れていました。
いつの日か出来上がって、普通に連絡がくるだろうから。
3ヶ月位して、「そう言えばあの鏡まだ連絡来ないね。」という事で、家具屋さんに電話。
調べてもらったら、まだこれからという事で、さらに2ヶ月もかかるとの事。
そんなのが2回もありました。
もうこのお店やめて他にしようと、返金してもらいキャンセル。
その時でしたが、なぜだかわかりませんが、ふと「自分で作る。」ということが浮かんで来たのです。
家具屋さん巡りしていたときに、別の店にあった木のフレームが頭からはなれず、なぜか作れそうだ、と思っていたのです。
もちろん私は木工の経験はゼロでした。
ただ、そんな制作しているイメージの夢らしきものを見たのを覚えています。
でも結果的に「自分で作る。」と浮かんだ日から2週間後に家具屋さんで見かけたものと同等以上のものが完成していました。
木枠のデザインが、どこのお店にも無いような独特のものでしたが、それら以上に理想的なものでした、
それでも、家の鏡を自分で作った、というだけの事です。
一つのものを作るのにいろいろな材料屋さんが必要なわけです。木材、ガラス、鏡、金具、そして木工機械。
そんなプロの人しか用のない材料屋さんがわずか数日でポンポンと見つかったのも不思議でした。
このあとは、毎日毎日バカみたいに額縁を作っていました。全く売れる見込みのない木の額縁が、家中にころがっていました。
売れる見込みがまったくないのに、なぜだか楽しくてしょうがないのです。
中学のとき、ギターを寝ないで練習してたとき以来のエネルギーです。
どんなに寝不足でも、まったく疲労感が無いのです。
こんなものを売って食べていけるとも思えないし、ましてインテリアの業界なんて全く縁のない世界なので営業する気も起きないで、ただ作っているだけです。
しかし、そんなバカみたいな勢いのおかげで、あっという間に完璧なスキルになっていました。
津留晃一さんに最後に会いにいったのもこの頃です。
額縁の制作が起きてきた事を話すと、アドバイスいただきました。
「売ろうとしないで下さい。」
「売る、と決めて(意図して)下さい。」
「宇宙がやってくれます。あとは信頼です。」
この言葉の深さ、全てに通じますよね。
私が何か恐れから思考に走った時、いつもこの言葉を思い出すようにしてます。
今でも忘れません、この頃、わが家の貯金の合計が残り¥3,000になりました。
まったく「お金に対する恐れ」がありませんでした。
その後の事です。(その7)「起きてくること-後編」へ。
Buna
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津留晃一さん(その7)「起きてくること-後編」。
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前編では、一年近く仕事をしない状態で、なんだか委ねたような生活を送っていたら、いくつかのシンクロニシティが起きて、額縁を作るということが起きてきたところまでを書きました。
私の経歴ですが、モノを作るという、いわゆる職人さんとは全く無縁のそれまでの人生です。
大学は理工系の物理方面で、工芸や芸術関係は全く正反対の世界でした。
仕事も都市計画の技術屋です。
子供の頃からかなり多趣味な方で、いろいろ首を突っ込んでは特に何もものに出来ないという特徴はありましたが、手先は器用な方だった様です。
そんなわけで、売れる見込みもない額縁をただ作りまくっていた頃の事です。
妻は以前、都内の広告会社で、百貨店広告のグラフィックデザインをしていましたが、ある日その会社の社長が私の制作した鏡を「何これいいじゃん。」、と持って行ってしまい、仲間のインテリア関係の人がそのデザイン性がなんとかかんとかで、編集関係者を経て有名な女性雑誌に紹介され、突然注文が入りだしたのです。
全国誌に出たので本当にびっくりしました。出ただけでもうれしかったです。
関わった方も日本のインテリアや雑貨業界では知らない人は居ないというプロのバイヤーの方と、スタイリストの方でした。
確かにこの時取り上げられた制作品は、手間がかかるので現在は全く作っていない、かなり斬新なデザインのフレームのミラーです。
ともかく、私は何もしていませんが、作ったものが、勝手に一人歩きして売れだしたのです。
驚いた事に、鏡を探して歩き回った目黒のインテリアショップなんかで私の作った鏡がお店に並んだのです。
注文品を車で納品したものの、納品書や請求書なんてこれまで書いた事がないので、教えてもらう始末です。
ちょうど、わが家の全貯金がなくなって、不思議と恐れも無くなっていた頃です。
1998年5月頃の事で、そのあと格安の値段で、全国規模の展示会に出展出来るチャンスがやってきました。これも奇跡的な事なのです。
それ以降もたくさんの度重なるシンクロニシティというしか言えない出来事でどんどん売上げが増えていきました。
展示会に出て、来た人に説明する以外には、商品の自発的な売り込みは、13年間一度もした事がありません。
そして、最も大きな「起きてきた事」です。
最初は鏡のフレームでしたが、妻に中の絵を描くように頼み、展示会で出したら中のイラスト絵が注目されどんどん売れだしたのです。
結果的に私の額縁は、彼女のイラストを世に出すためのお役目であった、という事でした。
妻はそれ以降フリーのイラストレーターとして活動しています。
以上がその当時の流れです。
「起きてくる事」はその時は、わかりません。あとで振り返るとあああれが、、、という感じです。
津留晃一さんも言ってましたが、「ええ?こんな方法で?」という特徴がある様です。
それまでの、自分の経歴と関係ない事が起きてきますから、とにかく、過去の経験とか得意分野を握りしめないでおくといいそうです。
あの日、
家具屋さんの鏡が、オーダーでなく現品を買えていたら、
また、オーダー品が普通に納品されていたら、
今のうちの仕事はひとかけらも存在しない事になります。
妻が品物を会社の社長に見せなかったら、社長が持っていかなかったら、
どれひとつ欠けても今の私の仕事は存在しないでしょう。
私が、こんな事で食べていけると思っていませんでしたから。
こんな「起きてきた事」で私の家族はとても自由なタイムスケジュールの中で、もう13年も生活しております。
屋号を「クリスピー」に決めました。大好きなバンドSpitzのアルバムタイトルもそうだったので。
ぶっちゃけて言いますと、あらゆる意味でサラリーマン時代に比べてもラクなのです。とても多忙な時期もありましたが、精神的ストレスが無いです。
今は仕事時間平均4時間/日です。天気のよい平日、いきなり旅行にも行けますし。
「私は、会社やいかなる組織にも属さず、時間が100%自分で管理出来る自由な仕事をする、」と意図する。
がその通りになっているようです。
細かくなってしまいましたが、端折るとどうしてもシンクロのニュアンスが、伝わらないと思い、こんな長い文章になってしまいました。
この時点で、読んで下さった方に感謝いたします。

2011年10月25日 (火)

海の公園でウィンドサーフィン。

きょうは、横浜、金沢八景の海の公園でセイリングしてきました。

平均6〜8m/sで、お昼から16時までたっぷり走りまくりました。

八景島のちかくまであっという間に行けました。

きょうは10月下旬なのに関東南部の気温26度と夏日でした。

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太陽エネルギーがそして地球がどんどん波動を上げているので、こんな気温が起るのでしょう。

2011年10月15日 (土)

津留晃一さん前編

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津留晃一さん(その1)「古いシステムから卒業」。
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津留晃一さんという方をご存知でしょうか。
2000年にお亡くなりになられていますが、今でも精神世界とか願望実現などに興味ある方だと知っている人も多いのではないでしょうか。
私は、実はこの津留晃一さんの書いたエッセイを読んで、サラリーマンを辞めたのです。
彼のエッセイを読んだのは1996から1997年の事です。15年も昔です。
当時私は、公務員として勤務していました。30代半ばです。
勤務先では昇級の路線からもはずれ、当時関わっていた一つの夢がガラガラと崩れて、ぼう然としていた頃です。その頃、妻のおなかには新しい生命がおとずれていました。
夢と希望をなくした私は、ただぼう然として過ごしていました。
そこから私の変容が起きてきました。
その夢の実現が失敗して、大きな挫折ではありましたが、不思議と安堵の中に自分がいる事に気付いたのです。
その夢の実現にもう関わらなくていいという安堵、、、、これは多くの人には理解出来ないでしょうが、そのとき私は「もともと大安心の中にいる」事が腑に落ちたのです。
私は自分の内側に向くしかありませんでした。
これは、ウツになったという事ではありません。以前よりも外側をいじくろうとしなくなったという事です。
しばらく遠ざかっていた、山に登りにいきました。
ごく自然に嗜好が変化しました。
まず、完全菜食になりました。
バブル期より徐々に増えていた体重でしたが、それ以降1ヶ月2kgくらいずつ減り、1年で、20kgマイナスして学生の頃の体重に戻りました。
体も心も軽快になりました。この作業が楽しくて、ダイエットなどと考えた事はありませんでした。
わが家に赤ちゃんが生まれ、職場以外の時間はほとんど、家族との時間に使いました。
そのころ出会ったのが津留晃一さんのエッセイです。
アネモネという雑誌で6回の連載でした。毎回、楽しみで仕方がありませんでした。
アネモネはいまは大きな書店でも見かけますが、当時は青山のナチュラルハウスという自然食品店でしか買えず、しかも隔月刊でした。
いまでも「一般の」人にはあやしい雑誌として扱われているでしょうが、私は心と体にとてもやさしい雑誌だと思っています。
その津留さんのエッセイを読んで、まあとにかくすごいインパクトで、びっくりで、うれしくなって、何度読んだ事か。
それまで、経験した事の無い新しい風が吹き込んできたのを覚えています。
魂が、もう嬉しくなってしまったのです。
新鮮な躍動感とも言えるし、新たな希望がわき上がってくるが、そもそも前向きな文章ではない。
本来知っていた事を思い出したようでもある。
「ああ、そうだったよな」、というような、本当に私のために書いてくれた様な文章でした。
その後私は、できるかぎり役所の勤務をしっかりとこなし、ベテランがやらないような雑務もなるべく引き受け、退職の準備に取りかかりました。
津留晃一さんのエッセイに出会って私の選択は、退職して今まで積み重ねたシステムから外れる、という事に決定したのです。
中学から高校受験、勉強して大学受験、また勉強して就職、そして組織の中で上へ上がっていく、というシステムからポンと外へ外れる、という事です。
次の仕事を考えずにです。
退職するための方法でなく、退職そのものを選択しました。
いわゆる脱サラで独立、ということではありません。
エッセイを読んで、他に選択肢が無いのです。
一本道です。
当時私には、前年に家を建てて、住宅ローンがありました。
そんな状況でも不思議なのですが、不安よりも、わくわくしてました。
「この宇宙の法則を証明する」、くらいのテンションでした。
その後1年くらいしっかりと?職場での仕事をたんたんとこなし、有給休暇を貯めていきました。
そして、休暇を取り家族でHawaiiへ。
Northのコテージと、ワイキキの[Breakers]というホテルに滞在して、思い切りくつろぎました。
この時も津留さんのエッセイのコピーを持っていました。
ラナイでビール飲みながら読んでいたのを覚えています。
2週間の滞在から帰国後、少しして仕事の区切りがついた瞬間が訪れました。
いくら公務員でも、有給休暇を一発で使い切ってしまい、もうすでに職場ではあやしげな雰囲気が漂っていました。
私は、あらかじめ人事課からもらっていた「退職願」という用紙に必要事項を書き上司に出しました。
とても簡単な書類でした。
人事の担当者は、相当ビックリしていた様です。
何せほぼ100%の人が定年まで辞めない職場でしたから。
退職理由は「一身上の都合による。」という定番。
2~3分で書けるような書類で、拍子抜けしたのを覚えています。14年4か月も勤めたのに、これ?
1997年7月の事でした。
その後です。津留さんにお会いしたのは。
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津留晃一さん(その2)「今この瞬間に生きる」。
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津留晃一さん(その1)では、私が津留晃一さんのエッセイと出会い、サラリーマンを辞めるまでを書きました。
「働かないと生きていけない。」という価値観を疑い、いったん手放して委ねてみよう、と人生を大きくシフト出来ました。
私は、役所を退職したあと1ヶ月くらいして、津留晃一さんにお会いしました。
個人セッションを受けにいったのです。
興味深いセッションでしたが、津留さんはと言えば、普通のおじさんでした。
お会いしたとき、やさしく笑って「どうしましたか?」、でセッションが始まりました。
そして、当時津留さん主宰の、21世紀創生会に入り創生会レポートを読み始めました。
これがまたインパクトあるんですよ。
当時の創生会レポートは、津留晃一の世界HPでバックナンバーが読めますよ。
私が津留さんの記事を書こうと思ったのは、私のブログを見た方でどなたか一人にでもこの創生会レポートを読んで欲しいと思ったからです。
この時期にあってまたあらためて響いてくる内容だと思います。(波長のあった方だけが読むでしょうから、、)
津留さんを訪ねて以降、私は長い長い自己観察とブロック外しの作業が始まります。
浄化の旅です。
「目の前に集中して生きる。今この瞬間だけに生きる。」
一瞬も逃さず、想念、感情を観察する。
ただ観察して気付くだけ、変えようとしない。
観察するとはそこに意識を向ける事。意識を向けるとはそこ(その価値観やマイナスの感情)に光が照射されるということ。
その瞬間から浄化が始まります。
浄化によって人はしあわせになっていきます。
幸せになろうと外側をいじくらずに、です。
本来の豊かさが、「起きてくる」のです。
わたしには、とても説得力ありました。
これまで、片方でブレーキを踏みながら頑張って来たのでしょう。ブレーキに気付かずに。
わかりやすく言えばそのブレーキに気付いて、外していく事でもあるでしょう。
人は本来初期状態では、幸せなんだと、全てが与えられているのだという事です。
これが、本来大安心の中にいるのだという事です。
その後私達家族は、Maui島長期滞在に出かけます。
その3へ続く。
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津留晃一さん(その3)「お金に対する恐れ」。
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私は、組織に居るのが大の苦手でした。こればかりが、ストレスでした。
ただ単に組織というモノがダメでした。
特に私が勤務していた役所なる組織は、大嫌いでした。
役人と言いながら、あまりにも人の役に立っていないお仕事がとても多いのです。
役所に勤めて、あ、ここはずっと居られないな、とその日に思ったのですから。
それでも、「長男だし。」とか「親に心配かけちゃ、、」とか、何かいろんな何100通りもの言い訳を自分で編み出して、何と14年も勤めたのです。
役所を辞めて、私は自由になりました。
自由になったのですが、収入がゼロになりました。当たり前です。
役所に行けば、トップが決めた予算に沿った仕事があり、仕事をこなせば毎月当然お給料がもらえます。
私は、役所でも図面に向かっている業務がほとんどの技術職でした。学校で学んだ専門をある程度は生かし、何の不自由も無い仕事内容でした。
ストレスを除いて。
要は、行けば給料がもらえるわけです。
二日酔いでもちょっと体調悪くても、とにかく這ってでも行けばお金がもらえるのです。
全てではありませんが別に公務員でなくとも、民間会社でも同じ事です。
そして退職によって収入がなくなったのです。
毎朝、起きると収入がゼロです。当たり前です。
この感じ、どう表現すればいいかというと、何でしょう、太平洋の真ん中にひとりポンと置かれたような感じでしょうか。
限りなく自由なのですが、どちらを向いたらいいかわからない状態です。
目標物が無い状態ですから。
月末には住宅ローンの支払いがあります。
毎日の生活費もあります。
でも津留さんの個人セッションでも理屈はわかっていました。
津留さんとは5回程会う機会がありました。
当時津留さんは、グループセッションや講演会でなく、個人セッションを主にやっておられました。
浄化の手法を教えてもらったり、一緒に浄化も実践でやっていただいたりしたので、私にはそれを使うしか方法が無かったです。
とにかく今この瞬間に集中する。
言葉では聞いていたが、「本気で」、です。
恐れが当然出てきます。内側に問いかけます。「この恐れの源は何ですか?」「何ですか。」「何ですか。」「何ですか。」
これも真剣にです。津留さんは、ここが大切と言っていました。
ただ問いかけるのでなく、「真剣に」です。
意識を集中するという事です。
ポイントはただただ本気で問いかける事で、問いかける作業そのものが強力なエネルギー浄化です。
答えは要りません。
むしろ出ない方がいいでしょう、とも言ってました。
この問いかけと、自己観察だけです。
そんな毎日です。
娘が1才半でしたので、毎日公園に遊びにいきました。
津留さんは、「今あなたがやる事は、それです。子供にぴったりと意識を合わせて下さい。子供は先生です。今この瞬間に居続ける子供に意識を会わせれば、今に生き続けられます。」
平日の公園は、もちろんお父さんがいるわけないので、かなり不思議がられましたが、だんだんとママさんグループとも仲良くなっていきました。
ただただ恐れがありました。
こんな事やっていていいのか、という恐れ。
とにかく役所を30代半ばで自分の勝手な都合で辞めたのですから、退職金なんてたいした額ではありませんでした。
理由が理由だけに失業手当の対象になるわけがありません。
貯蓄があと数ヶ月で、なくなるのは、簡単に暗算で計算出来たのです。
こんな思考の時は、「今」に生きていないのです。
意識が、「今」でなく「月末」や「あと数ヶ月後」に飛んでいるのです。
これに気付くのです。
気付いても、数秒でまたブレます。
ブレまくります。
思考が働く時は決まって、その根っこは100%「恐れ」です。
津留さんに教わった事の一つ、「思考は、糞の役にも立たない。」「思考には、物事を実現する力は、ひとつもない。」
これは、ショックでした。「ひとつもない。」ですよ。
これまで、考えて行動して何かを実現して来たと何となく信じていましたから。
「思考には、何の力も無い。実現しているのは、"大いなる私"である。思考は、方向付けだけに使って下さい。」
毎日、家族3人でおいしいパン屋さん巡りとか。小さな旅に出かけたり、子供を通じて知り合った同じような感性の友達たちと過ごしたり、こんな生活が出来る事に一種感謝がわいて来ていました。
今思うと、聖なる日々です。
そんな自己観察の日々を過ごしていました。
貯金がなくなった頃になにか起きてくるだろう、と
まあ元々貯金など当てにしてはいなかった。いずれなくなるし、あるから恐れがあるのだ。
ところが、これは本当だった。
その後、貯金が無くなったとき、同時に「恐れ」も消えてなくなった。
後編へつづく。

2011年10月 7日 (金)

10/7彩湖でウィンドサーフィン。

今日は、よく吹きました。

12時にゲレンデ着。

さすがにYahooの予報で5m,マピオンでは10mの予報だけあって、20人以上のウィンド乗りが集まってきました。

17時までコンスタントにいい具合に吹いてくれました。

私にとってこの夏以降最高のコンディションです。

家から20分の距離でプレーニング最高です。

彩湖の水位も秋冬バージョンに戻り、いっそうやりやすくなりました。

写真:彩湖でウィンド最高!
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写真:彩湖周辺は美しい公園。ちょうどコスモスが満開です。
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2011年10月 3日 (月)

10/3彩湖でウィンドサーフィン。

今日は、埼玉県のウィンドサーフィン・ゲレンデの彩湖でセイリングです。

清々しい秋空。暑くも寒くもなく、とても気持ちいい一日でした。

ウェットスーツはシーガルでちょうど良かったです。

月曜日なのに10人以上のウィンド乗りが集まってきました。

ただアメダス風情報ほど吹きませんでした。

途中14時頃か、ちょっと入って来てようやく走りだした感じで、15時すぎからあとは落ち着いてしまいました。

でもウィンド乗りの人たちは、みんな気さくで楽しいひとときでした。

16時にはおしまい。

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